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最高裁判所第三小法廷 昭和59年(オ)11号 判決

上告人 検事総長○○○○

補助参加人 松井保 外7名

被上告人 田村君子

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告補助参加人代理人○○○○、同○○○○、同○○○○○、同○○○○、同○○○○の上告理由書及び追加上告理由書記載の上告理由について

一  原審の適法に確定した事実関係は、次のとおりである。

1  昭和27年8月21日、被上告人を亡山田梅太郎・亡山田サト夫婦(以下「亡梅太郎夫婦」という。)の養子とする旨の縁組の届出がされた(以下「第1回縁組」という。)。

2  昭和32年5月15日、亡梅太郎夫婦と被上告人間の協議離縁の届出がされた(以下「第1回離縁」という。)。

3  昭和33年8月29日、被上告人を亡梅太郎夫婦の養子とする旨の縁組の届出がされた(以下「第2回縁組」という。)。

4  昭和41年1月8日、亡梅太郎夫婦と被上告人間の協議離縁の届出がされた(以下「第2回離縁」という。)。

二  被上告人の上告人(検察官)に対する本訴請求は、戸籍上、昭和41年1月8日の協議離縁の届出により被上告人と亡梅太郎夫婦とが第2回離縁をしたことになつているが、被上告人は右届出をしていないので、第2回離縁が無効であることの確認を求める、というのである。これに対し、上告補助参加人らの主張は、第2回離縁の前提となる第2回縁組が被上告人不知の間にされたもので無効であるから、第2回離縁の無効を論ずる必要はないなどというのであるが、第2回縁組につき右参加人らから右縁組無効確認の訴えは提起されていない。

第一審は、第2回縁組が無効であると認定したうえで、第2回離縁の前提となる第2回縁組が無効である以上、右離縁が無効であるからといつて養親子関係が有効に存続するわけでもないから、被上告人は第2回離縁の無効を確認する法的利益がないとして、被上告人の本件訴えを却下した。原審は、第1回離縁及び第2回縁組がいずれも無効であると認定判断したうえで、第2回離縁が被上告人主張のように無効であれば、被上告人と亡梅太郎夫婦との間の第1回縁組に基づく養親子関係が有効に存続する筋合となるから、被上告人は第2回離縁の無効確認を求める法的利益があるとして、第一審判決を取り消し、本件を第一審に差し戻した。

三  思うに、戸〔要籍上旨〕離縁の記載がされている養子縁組の当事者の一方は、もし右戸籍の記載が真実と異なる場合には、離縁無効を確認する確定判決を得て戸籍法116条により右戸籍の記載を訂正する利益があるというべきであり、当該離縁無効確認の訴えにおいて、相手方(本件におけるような補助参加人を含む。)から縁組が無効であるとの主張がされ、仮にこの主張が認められる場合であつても、離縁無効確認の訴えの利益は失われるものではないと解するのが相当である。

これを本件についてみるのに、被上告人と亡梅太郎夫婦との間の第2回離縁の届出がされ、その旨の戸籍の記載がされているというのであるから、右戸籍の記載が真実と異なる場合には、被上告人は、離縁無効を確認する確定判決を得て右戸籍を訂正する利益を有するものであり、仮に第2回縁組が無効であるとの補助参加人らの主張が認められる場合であつても、離縁無効確認の訴えの利益は失われないものというべきである。

四  そうすると、被上告人において第2回離縁の無効確認を求める法律上の利益を有するとした原審の判断は、結論において是認することができ、所論引用の判例に抵触するものではない。論旨は、原判決の結論に影響を及ぼさない点につき原判決を非難するか、又は原審の認定しない事実若しくは独自の見解に基づき原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。よつて、民訴法401条、95条、89条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 安岡滿彦 裁判官 伊藤正己 長島敦 坂上壽夫)

上告補助参加人代理人○○○○、同○○○○、同○○○○○、同○○○○、同○○○○の上告理由

(上告理由書記載の上告理由)

第一原判決は次に述べる事実認定の過程において経験則違背、理由不備、判断遺脱の違法がある。

一 原判決は昭和32年5月15日の第1回目離縁につき、被上告人不知の間になされた旨認定しているが、これは誤りである。

〔一〕 被上告人が昭和30年頃亡山田梅太郎夫婦と別居した事実は原判決の認定通りである。

別居の時期につき被上告人も一審では昭和31年3月の中学卒業前である昭和30年に養母から私を連れて帰れと母(北野フサエ)が云われたと云つて実家に戻つている旨の供述があり(昭和56年7月22日実施被上告人本人尋問)、更に昭和56年10月23日付の被上告人本人尋問(第10、11項)でも「昭和30年の中学卒業前の昭和30年に別居して実母のところからずつと学校に行つており、高校も北野家から通つていた」旨の供述をなしている。これによると明らかに中学3年の昭和30年に別居した事実は明白である。

次に別居の理由であるが、実兄北野正文の第一審での証言において(調書第11頁裏)は「いろんな問題があつて君子を連れて帰れというようなことをおばに云つておりました・・・・・・君子も母親のところに帰るほうがいいということを私が云つて帰らしたような気持がします」と述べているし、被上告人も甲第4号証の陳述書で「私が中3の時突然実母のところへ帰れと云われました。そう云われた時はとても嬉しかつたのを覚えています。帰れと云われた理由は今でも分かりませんが・・・・・・」と述べている。

以上述べた点から考えると、事実は中学3年の半ば、亡山田梅太郎夫婦と養親子としてのトラブルがあつて実家へ戻つたものであると考えられる。

右の点につき被上告人は控訴審では突如「通学に便利だから実家から高校へ通いと云われた」旨述べているが、これは第一審での供述と明らかに矛盾するのみならず、事実に反する。被上告人自身病弱でもなく高校は亡山田梅太郎の家から徒歩で通える距離であり、実家は二間の狭い家で、そこに兄二人と実母が住んでいるのである。「高校に通うため」とは控訴審での第1回離縁無効の主張のため持ち出された虚偽の事実である(高校卒業後、亡山田梅太郎と同居していない事からも証明出来る)。

〔二〕 右別居以来北野フサエの第一審の証言にあるとおり

問 実家であるあなたのところに君子さんが帰つてきてからは、山田梅太郎とサトというのはそういう学校関係、世間関係でも父親、母親というようなあれはしていなかつたわけだ。

答 そうです。

また

問 それから今日までもう一ぺん君子に帰つてきてくれと、うちの子やから、というようなことがあつたんですか。山田梅太郎、サトからあなたのほうに。

答 なかつたと思います。(北野フサエ調書第18項)

と証言しており、右別居は単に一時的に離れて住むという意味ではなく終局的に親子関係を終了させるものであつたことは明白である。父親代わりの長兄北野正文は、「(籍)を抜いたということはあとで聞いた」旨述べているが、「離縁するぞということは聞いています」(同人の調書第20項)と明言していることと前述したように同人が「君子も母親のところに帰るほうがいいということを云つて帰らした。」と述べている事実を加味すれば、同人は離縁を百も了承していたものといわざるを得ない。

〔三〕 離縁届を出す時点では既に被上告人は実母北野フサエとおそらく1年数か月以上同居して亡山田梅太郎夫婦とは完全に別居し、周囲の者にも右事実は当然判つており、離縁届の事実を隠す理由は全くなかつたのであり(北野正文調書第10項で第2回離縁について述べているが、同じことは第1回離縁についてもあてはまる)、更に父親代わりの長兄が事前に了承していたのであるから経験則上被上告人も右事実を聞き知つていたと考えるのが当然である。

仮に届出の方法や日時等を具体的に知らなかつたとしても右別居の事実は当事者双方終局的に養親子関係を終了せしめる意思をもつていたのであり、被上告人には右趣旨を了解して別居したものであり、これは事前に離縁届をすることも了解していたと推認するのが相当である。このことは被上告人が自ら甲第4号証で「五、・・・・・・帰れと云われた理由は今でも判りませんが・・・・・・陰気で病気がちの私をみて死んだ姉良子のこともあり、面倒をみてゆく自信がなくなつたのではないかと想像します。」と述べ終局的な別離であることを認めていることよりしても明らかである。

二 仮りに被上告人は事前に離縁届について了承していなかつたとしても後日追認した。この点につき上告人補助参加人は控訴審で昭和33年8月29日に追認と述べたがこれは右期日までにという意味であり、また右追認の日時は上告人補助参加人にとつて一つの主張にすぎないのであつて、ことに職権探知主義をとる人事訴訟法ではしかるべき事実により判断さるべきものである。

上告人補助参加人らの昭和33年8月29日の第2回養子縁組までにというのは第2回養子縁組は、父親代わりの長兄や同居している実母が片親では就職に不利だから亡山田梅太郎に頼んで銀行に就職するため便宜的に届を出したものであり、おそくともこの日までには第1回離縁届の事実を両名は知り異議を述べず容認していたとの趣旨である。

大和銀行に入社することは被上告人本人の希望である旨は、実母である北野フサエが明言している(同女の調書第20項)。被上告人は別居して後も亡山田梅太郎の家には出入りしていた旨述べているし、長兄は山田梅太郎の従業員であり、実母も女中代わりに出入りしていたのである。そして長兄北野正文は離縁届の事実を知つていたことは前述したが、実母についても、同女は自ら「(就職するのに)片親では銀行勤めできないから」と云い出し、銀行入社の話があるまでに同女は離縁届の事実は知つていたことは明らかである。北野正文も「1回目の籍が抜かれたことは母親は知つておつたと思います。」(同人の調書12項)と述べている。これらの事実から、被上告人と同居している実母及び長兄は、離縁届を百も承知しており、かつ親子関係を切る意味で別居して以来離縁届については何ら隠す理由はなかつたのであるから、被上告人も就職の準備をするに際し亡山田梅太郎・亡山田サト・長兄・実母のいづれかから聞き知り異議を述べず容認していたと考えるのが自然である(黙示の追認)。

三 仮りに昭和33年8月29日の第2回縁組届出の日までに知らなかつたとしても右時点以降に黙示の追認があつた。

〔一〕 被上告人は○○銀行に入社する際戸籍謄本をとり離縁が出されている事実を知つた(被上告人の昭和56年10月23日付調書13頁)。第一審判決が指摘するように、亡梅太郎・サト夫婦も昭和33年8月29日の第2回離縁届については真実の親子関係をもつ意思はなかつたのである上、被上告人と右夫婦間には第1回目離縁以降親子としての具体的な生活事実もなく、第2回目縁組が有効になることはあり得ない。却つてその後の次に述べる被上告人の言動は被上告人自ら第1回目離縁容認の意思を明確にしている。

まず第1に被上告人は便宜的に亡山田梅太郎夫婦の養子として入社した○○銀行を退社した以降は自ら北野君子として振舞つている。

即ち、○○銀行退社後、○○商事に入社する際は北野君子として履歴書を書いている(控訴審での昭和58年4月5日実施調書54頁)。おそらく被上告人は右書類の父母欄には実母の北野フサエを記載しているであろう。そしてその後は北野君子と名乗り、自らの結婚に際しても北野家から北野君子として結婚式をあげているのである。

第2に周囲の者もすべて北野君子として取扱い、被上告人自身もこの扱いを承認している。

例えば、山田サトが死亡した際の葬式の焼香順位は、被上告人は北野家の最後であつた。尚この点につき被上告人は「・・・・・・2番目に焼香し山田の子としてあつかわれていると感じた記憶がある」旨述べている(昭和58年5月24日付調書11項)。しかしながら当時右葬式の采配を振つた被上告人の実兄北野正文自身が被上告人は北野家の一番最後であつた旨明確に述べている(同人の調書16頁)。

更に被上告人は右山田サトの葬式に香典を出していない。この点につき被上告人は「香典は出したと思う」旨述べているが、添付書類丙9号証の香典台帳よりすれば田村愛子の記載はなく、全く出捐していないのが真実である。

その他被上告人は山田家の法事に出席したこともなく、中学3年に家を出てから山田の子として取り扱われたことはなく、そのことについて被上告人が異議を申し述べたことはない。

〔二〕 被上告人は第1回離縁の事実を知らなかつた旨供述するが被上告人の本件訴の中での供述には虚偽と思われる点が多い。例えば山田サトの葬式の焼香順位の点や香典の点等についてである。

更に姓の点についても被上告人は一審では夫たる田村とは「19才の時銀行に入社した時知り合つた」(同女の昭和56年7月22日付調書7頁)旨述べ更に「主人と北野君子として交際していたのです」(同女の昭和56年7月22日付調書8頁)旨述べているにかかわらず控訴審の昭和58年4月5日実施の供述では(第52項)「私の主人は○○銀行のときから知り合つていました。その当時主人とは山田の名でつきあつていました。北野の名ではつき合つていません」と述べている。自分の名を何と名乗るかはおそらく被上告人にとつても重大事であるにかかわらず、供述が変わつており、仮に田村友博に途中で姓名を名乗り変えたとすれば、控訴審の昭和58年5月24日付調書(14項)で誰と住んで戸籍がどうなつているかを結婚の1年前に思い切つて打ち明けたと述べていることは全く不可思議なこととなる。

原判決はかように矛盾の多い被上告人の供述を何らの根拠なくこれを真実として取り上げ結論を導いているのは不当である。

そして、仮に被上告人が第1回離縁の事実を全く知らないとすれば、前述したように自らの姓名を山田とする者が姓名の違う実母と同居して5年間は実母と異る山田姓を名乗つていたにかかわらず、その後会社勤め(○○商事)をする際から何の理由もないのに北野君子と名乗り変えることは考え難いし、また周囲が山田の子として取扱わなかつたことに対し何らかの抗議を申し出るはずである。

真実は被上告人の意思としても銀行就職のために姓名を借りた後はもう自分は山田ではないとの意思から北野と名乗り、今後現在まで北野の娘として生活してきたのである。

だからこそ被上告人は山田サトの死亡年月日も全く覚えていない(昭和56年10月13日付調書2頁)のである。

以上のように原審は重要な点について虚偽と思われる被上告人の供述を何らの根拠なくこれを事実としてとりあげ前述の矛盾点を無視し、第1回離縁届につき不知と認定しているがこれは著しく経験則に違背する認定であり、また追認(黙示的)の事実についても以上述べた各点について検討せず判断遺脱の違法がある。

第二仮にこれまでの主張が認められなかつたとしても本件訴訟はもともと信義則に反する不適法なものである。

仮に被上告人の主張どおりとしても同女は第1回目離縁等について亡山田梅太郎・亡山田サト夫婦が生存中に何回も戸籍訂正の方法をとるなり右両名に対し抗議を申し出る機会はあつたはずである。

昭和33年銀行に入社するに際して戸籍謄本をとつた際、結婚する前に戸籍謄本をとつた際、昭和54年山田サト死亡後に戸籍謄本をとつた際にである。

被上告人自身昭和58年5月24日実施本人尋問において(14頁)「私としては戸籍が出たり入つたりして戸籍がよごれているし、結婚のとき戸籍を調べられると思つたし、私自身そういう戸籍でありながら・・・・・・」と述べ自ら右事実を知つていた旨認めている。加えて、被上告人は山田サト死亡後に戸籍謄本をとつたのは、同女が死亡することによつて何か云う権利があるかどうかと思つて右謄本をとつたのであり(被上告人の昭和56年7月22日付調書末尾)その結果離縁の事実を認め何ら抗議することなく容認したのである。

このように山田サトが死亡した際にも一切山田梅太郎にはこの話をせず、同人まで死亡して、山田夫婦が被上告人が知つていた旨や了承していた旨反論できなくなるや、突然本訴を提起した上、第一審で第2回目の離縁無効が却下されるや更に24年前の離縁の無効まで主張してきたものである。かような訴訟や主張は信義則に反するもので、これを前提とする原審判決は不適法なものである。

第三原判決は、被上告人に第2回(昭和41年1月8日届出)の協議離縁の無効確認を求める法的利益を有すると判断しているが、これは確認の訴の利益の解釈に関しての民事訴訟法の趣旨及び後述の判例法に違背するものである。

一 原判決は第1回離縁を無効と認定し(この認定が著しく経験則に違背した違法なものであることは前述した。)従つて第2回縁組も当然無効であり、そうすれば第1回縁組が有効に存在することとなるので第2回離縁の有効・無効を判断する法的利益を有すると結論している。しかしながら、第1回目の離縁に基づく法的効果と第2回目の離縁に基づく法的効果は異る可能性があるのが通常である。

例えば

1 第1回目離縁後第2回縁組前に出来た養子の子は養親と親族関係は生じないが、第1回目離縁が無効であり第1回縁組の効力が続いておれば右の期間内に出来た養子の子とも親族関係が生じる。代襲相続等の場合に重要な差異が生ずると考えられる。更に右間に養子が離婚した場合においては夫婦共同縁組の問題も生ずる。

2 本件においては第1回離縁後においても被上告人は満15才以上ではあつたが満20才未満の未成年者であつたため、通説によれば実親の親権が回復することになる。従つて第2回縁組までに実親たる法定代理人の同意を得て養子がなした法律行為の効力についても第1回目離縁と第2回目離縁とでは差異が生ずる。

右のうち1については戸籍謄本の記載上判明するが、2については不明である。また縁組の当時者の意思としても、それより生ずる法律関係からしても、当事者の意思の合致によつて形成した一個の法律状態を解消する意思と、また別の時期に形成した法律関係を解消する意思とは異るのが通常である。まして異る時期における解消は先に述べたように時期のずれにより法的効果がある場合においてをやである。

即ち、2回目の縁組が無効ならば2回目の離縁はあり得ないのであつて、従つてこれを判断する法的利益はないものである。

本件のような確認の訴の利益について最高裁昭和45年7月15日大法廷判決では過去の法律関係によつて生じた法律効果につき現在法律上の紛争が存在し、その解決のために右の法律関係につき確認を求める必要がある場合がある旨述べているが、この趣旨からすると右判決の補足意見にあるように現に存する紛争解決のため、直接かつ最も必要な場合にのみ訴の利益を認めるべきことになる。しかるに、本訴に訴の利益を認めた原判決は民事訴訟法の趣旨及び判例法に違背するものである。

以上いずれの理由によつても控訴審判決は破棄されるべきである。

(追加上告理由書記載の上告理由)

上告人補助参加人は、亡山田梅太郎夫婦の縁故者らより種々事情を聴取したところ、別紙添付丙第10号証乃至13号証とおりであり、上告人補助参加人らが右上告理由書で述べたところと一致するのでここに申し述べる次第である。

即ち、被上告人が山田家から北野フサエの元に帰つた時期であるが、丙第13号証の元従業員稲田忠雄は被上告人が中学3年の梅雨の頃とはつきり述べており大八車を押して雨の中被上告人の荷物を運んだとのことである。

右により被上告人の控訴審で申し述べた高校へ通うために実家へ帰つたとの供述が虚偽であることは明白である。

また別居の理由については、丙第10号証の小田原久枝や、丙第12号証上告人補助参加人松井オミヲも被上告人は山田家に合わず、いつも実家に帰りたい旨述べていたとのことであり、これまた上告人補助参加人が上告理由書で述べたところと一致するものである。

そして、実母のところへ帰るのが被上告人の強い希望であつたことからその離縁届も被上告人の望むところであり、この被上告人の希望により離縁届を出したものと推察できる。

そして被上告人が実家に帰り、山田夫婦と親子関係が社会生活上終了した後は、当然戸籍上も決着をつけたかというのは第三者でさえ興味を持ち確認したい事柄であり、だからこそ丙第12号証の高田元男や松井オミヲもこれを尋ね、その結末を聞いており、何ら隠しだてするような事情は全くなかつた。その後は被上告人は山田家の法事にも出席せずその他山田梅太郎夫婦の子供として扱われたことは一度もないことは高田元男や松井オミヲの陳述書からも明らかである。

被上告人は山田梅太郎夫婦が死亡して事情を知る者がなくなるや本訴を申し立てたが、長年確定した身分関係に基づいて形成した社会生活事実、即ち、被上告人と離縁して以来山田梅太郎夫婦には子供がないということは周目の一致するところであり、いかなる事情を被上告人が法廷で述べようともこれが事実に齟齬することは明白である。

以上の事情を追加して陳述する。

〔参照1〕二審(大阪高 昭57(ネ)2256号 昭58.9.29判決)

主文

原判決を取消す。

本件を大阪地方裁判所に差戻す。

事実

第一申立

控訴人は「原判決を取消す。昭和41年1月8日付大阪市港区長に対する届出による控訴人と亡山田梅太郎、亡山田サトとの協議離縁は無効であることを確認する。訴訟費用は第一、二審を通じ被控訴人らの負担とする。」との判決を求めた。

被控訴人補助参加人らは「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

第二主張及び証拠関係

当事者双方の主張及び証拠関係は、次に付加するほか原判決事実摘示のとおりであるからこれを引用する。

一 控訴人は、次のとおり主張した。

1 昭和32年5月15日届出の亡梅太郎・サト夫婦と控訴人との協議離縁(以下「第1回離縁」という。)、昭和33年8月29日届出の右夫婦と控訴人との養子縁組(以下「第2回縁組」という。)、昭和41年1月8日届出の右夫婦と控訴人との協議離縁(以下「第2回離縁」という。)の三つの届出は、いずれも亡梅太郎が独断で控訴人不知の間に手続したものである。原判決のように第2回離縁の前提となる第2回縁組が無効であるからといつて第2回離縁の無効について判断しないのであれば、控訴人としては、右第2回縁組の前提となる第1回離縁がそもそも亡梅太郎の独断でなされたもので無効であることを主張する。

2 被控訴人補助参加人らの追認の主張は否認する。

二 被控訴人補助参加人は、次のとおり主張した。

1 当審における控訴人の主張は争う。

2 第1回離縁が仮に無効であるとしても、控訴人は第2回縁組届出の日に右離縁を追認した。

三 新たな証拠関係〔略〕

理由

一 真正な公文書と認める甲第2、第3、第7号証、丙第4、第5号証、原審証人北野フサエ、同北野正文の各証言、原審及び当審における控訴人本人尋問の結果、甲第1号証の存在並びに弁論の全趣旨によれば次の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

1 控訴人は、伯母亡サトとその夫亡梅太郎の夫婦に子がなかつたことから、小学校1年生の頃から亡梅太郎・サト夫婦の許に引取られ事実上の養子として生活を共にしていたが、当時15歳未満であつたので、同夫婦と控訴人の法定代理人である実母北野フサエとが家庭裁判所の許可を得たうえ、控訴人を同夫婦の養子とする旨の縁組をなし、昭和27年8月21日右縁組の届出がされた。

2 控訴人は、中学3年生となつた昭和30年頃、同夫婦と別居し、実方である北野フサエの許に帰され、昭和32年5月15日同夫婦と控訴人間の協議離縁の届出がなされたが、当時16歳の控訴人は右第1回離縁につき了解を求められたことはなく、右届出は控訴人不知の間になされた。

3 控訴人が高校3年生となつた昭和33年8月29日、控訴人が同夫婦の養子となる旨の縁組の届出がなされたが、右第2回縁組については控訴人の長兄北野正文が了解していたものの、当時18歳であつた控訴人は右縁組につき了解を求められたことはなく、右届出も控訴人不知の間になされた。

4 控訴人は、昭和40年5月5日田村敏博と結婚式を挙げ、同年7月21日婚姻届をし、爾来同人と夫婦として生活している。

5 昭和41年1月8日亡梅太郎夫婦と控訴人間の協議離縁の届出がなされた。

6 前記第1回離縁、第2回縁組はいずれも亡梅太郎の意思によつて手続がなされたものである。

二 以上の事実によれば、控訴人と亡山田梅太郎、同サト夫婦との間の当初の養子縁組(昭和27年8月21日届出)は有効なものというべきであるが、第1回離縁は、既に年令16歳に達し身分行為能力(民法811条2項により15歳)を有する控訴人の意思に基づかないことが明白であるから、離縁をする意思がないものとして無効というべきである。

しかして、第2回縁組は右第1回離縁が有効であることを前提とするから、第1回離縁が無効であれば、その前提を欠き、第2回縁組も当然無効となる筋合である。この点に関し、被控訴人補助参加人らは、第1回離縁が無効であるとしても、控訴人は第2回縁組届出の日にこれを追認した旨主張するけれども、前記認定のとおり第2回縁組につき控訴人は了解を求められたことがなく、その届出も控訴人不知の間になされ、したがつて控訴人の意思に基づかないものと認められる以上、第2回縁組届出によつて控訴人が第1回離縁を追認する余地はないし、他に右追認の事実を肯認すべき証拠はないから、右主張は失当である。(なお、当裁判所は、縁組や離縁の無効は必ずしも縁組無効訴訟や離縁無効訴訟の訴訟物としての場合に限らず、その前提問題としてでも、主張しかつ判断しうるものとの見解をとるものである。)

そうすると、第2回離縁が控訴人主張のように無効であれば、控訴人と亡山田梅太郎、同サト夫婦との間の当初の縁組(昭和27年8月21日届出)にもとづく養親子関係は有効に存続する筋合となるから、控訴人は第2回離縁の無効確認を求める法的利益を有するものというべきである。

三 以上のとおりであるから、第2回離縁の無効確認を求める控訴人の訴えを訴えの利益を欠き不適法であるとして却下した原判決は失当である。

四 よつて、原判決を取消し、民事訴訟法388条に従い本件を大阪地方裁判所に差戻すこととし、主文のとおり判決する。

〔参照2〕 一審(大阪地 昭55(タ)364号 昭57.11.18判決)

主文

一 本件訴を却下する。

二 訴訟費用は、参加によつて生じた分を含め、原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一 原告

1 昭和41年1月8日付大阪市港区長に対する届出による原告と亡山田梅太郎、亡山田サトとの協議離縁は無効であることを確認する。

2 訴訟費用は被告の負担とする。

二 被告

1 原告の請求を棄却する。

2 訴訟費用は原告の負担とする。

三 被告補助参加人ら

1 原告の請求を棄却する。

2 原告と参加人との間に生じた訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一 原告

1 原告は、昭和33年8月29日、訴外山田梅太郎(以下、亡梅太郎という。)、同山田サト(以下、亡サトという。)夫婦の養子になる旨の縁組の届出をした。

2 戸籍上、昭和41年1月8日大阪市港区長に対する届出により、原告と亡梅太郎、亡サト夫婦とは協議離縁したことになつている(以下、本件離縁という。)。

3 しかしながら、原告は右届出をしていない。

4 亡サトは昭和53年10月2日、亡梅太郎は昭和55年12月14日それぞれ死亡した。

5 よつて、原告は、右協議離縁が無効であることの確認を求める。

二 被告

1 原告の主張1、2及び4の事実を認める。

2 同3の事実は不知。

三 被告補助参加人ら

1 原告の主張1、2の事実を認める。

2 同3の事実を否認する。

3 本件離縁の前提となる養子縁組は、昭和33年8月29日届出られたが、右縁組は原告不知の間になされたものである。従つて、本件離縁の効力を論ずる前にその前提となる養子縁組自体無効であるから、本訴請求は棄却されるべきである。

4 仮りに、右主張が認められないとしても、原告が、夫である訴外田村敏博と結婚する際、この結婚に反対した亡梅太郎夫婦が、原告に、養子縁組を解消しても結婚するのかと申し向けたのに対し、原告は、山田家とは縁を切りたい、私の方から離縁してほしいと回答して結婚したため本件離縁をすることになつたものであり、右離縁は原告の意思に基づくものである。

5 仮りに、右主張も認められないとしても、原告は、本件離縁届が出た直後、或いは、遅くとも本件離縁の事実の記載ある戸籍謄本を見た昭和53年10月ないし昭和54年ころまでには、本件離縁を追認した。

すなわち、本件離縁の前提となる養子縁組は、親子としての実体を形成するためのものでなく、原告が○○銀行へ就職するために便宜的な手段としてなされたもので、亡梅太郎夫婦と原告との間には、親子としての生活事実は一切なかつた。かかる養子縁組であつたため、原告は、本件離縁届が出た直後に右届出を知らされ、或いは、昭和53年10月2日亡サト死亡後に、本件離縁の記載のある戸籍謄本を取り寄せた際に、本件離縁を知つたが、遅くとも昭和54年ころまでにはこれを追認したものであり、このことは、本件離縁後14年間、原告は、本件離縁が無効であるとか、自分が養子であるとか主張したことは全くなく、もとより、何ら戸籍訂正の方法を講じることもせず、前記亡サト死亡により相続が開始したときも同様であり、亡梅太郎死亡の際も、その葬式や初七日の席で補助参加人らが相続人である旨振舞つても何らの異議も述べず、客として終始していたことからも、明らかである。

第三証拠〔略〕

理由

一 その方式及び趣旨により公務員が職務上作成したと認められるから真正な公文書と推定すべき甲第2、第3号証、第7号証、丙第4、第5号証並びに弁論の全趣旨によれば、原告の主張1、2及び4の事実が認められ、これに反する証拠はない。

二 前掲各証拠に、弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる丙第2号証、原告本人尋問の結果とこれにより真正に成立したと認められる甲第4号証、証人北野フサエ、同北野正文、同大谷政次の各証言によれば、次の事実が認められ、右認定を覆えすに足る証拠はない。

1 原告は、原告の伯母夫婦である亡梅太郎、亡サト夫婦に子がなかつたことから、原告が小学校1年生となつた昭和21年ごろの夏から、右夫婦の養女として右夫婦と生活を共にし、昭和27年8月21日原告を右夫婦の養子とする旨の縁組届出がなされた。しかしながら、原告が中学校3年生となつた昭和30年ごろ、原告は右夫婦と別居して実母である訴外北野フサエの許で生活するようになり、昭和32年5月15日、右夫婦と原告間の協議離縁の届出がなされた。

2 本件離縁の前提となる養子縁組は、原告の高校卒業後の就職に備えて、原告の実父が既に昭和18年に死亡していたことから、片親だけでは就職が不利になることを懸念した亡梅太郎の配慮によりなされたもので、原告の長兄である訴外北野正文は右縁組を了解していたものの、当時18歳の原告は、右縁組につき了解を求められたことはなく、その後、就職に際し取り寄せた戸籍謄本によつて右縁組の事実を知つた。従つて、右縁組後も、原告は、養親である亡梅太郎、亡サト夫婦と同居したことはなく、高校卒業後最初に就職した株式会社○○銀行では、戸籍に従い、養親の氏である山田姓を名乗つていたけれども、その後勤めた○○商事では、戸籍とは別の養子縁組前の氏である原告の実家の北野姓を名乗つており、また、右○○銀行に勤務中に知り合つた現在の夫である訴外田村敏博とも、北野姓を名乗つて交際し、昭和40年7月31日同人と婚姻の届出をしたが、その結納の授受は原告の実家で行なわれ、結婚式も北野家として行なわれ、亡梅太郎、亡サト夫婦は、原告の伯母夫婦として右結婚式に出席したものの、亡梅太郎の親族は誰も招待されなかつた。なお、亡梅太郎、亡サト夫婦は、原告の結婚費用を負担するなど、原告に対する相当の経済的援助を与えているが、同様のことは原告の兄の訴外北野伸二に対してもなされており、右援助は原告だけに限られない。

三 右認定の事実によれば、本件離縁の前提となる養子縁組は、原告不知の間になされたもので、その届出は養子とされた原告の意思に基づかないうえ、養親とされた亡梅太郎、亡サト夫婦においても、右縁組により、原告との間に真実養親子としての関係を設定しようとしたいというよりは、原告の就職に益するようにとの便宜的手段として右縁組を結んだものであるから、いずれからしても、右縁組は、縁組意思を欠く無効のものといわざるをえず、その後の原告と亡梅太郎、亡サト夫婦の関係に照らせば、右縁組が追認されたとも認め難い。

ところで、養子縁組に無効事由が存する場合、右縁組は当然に無効であつて、その旨の判決又は審判によつて始めて無効が確定するものではなく、従つて、右判決等を俟つまでもなく、いつでもその無効を主張できるものと解される。そうすると、仮りに本件離縁に原告主張の無効事由があるとしても、前記認定のとおり、右離縁の前提となる養子縁組がそれ自体無効である以上、右離縁が無効であるからといつて、養親子関係が有効に存続するわけでもないから、離縁自体の無効確認を求める法的利益はないものといわざるをえない。

四 よつて、本件訴は、訴の利益を欠くものとして不適法であるから、これを却下することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法89条、94条後段を適用して、主文のとおり判決する。

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